オーストラリアでの日系ブラジル人との出会い
オーストラリア語学留学を通して日系ブラジル人と出会い、彼らに興味をもった。
彼らとの交流を深める中で「なぜ日本人は地球の裏側のブラジルへわざわざ渡ったのか?」という単純な疑問がわいたので、それについても書いていきたい。
私の通う学校Oxford House College(OHC)で出会った2人の日系ブラジル人は100年前の強く美しい大和魂を、私達日本人よりももっているように思える。
1人目は、パロマ・ヤエミ・シマダである。
彼女は日系3世で、血筋としてはハーフとなる。
祖母と祖父は日本人で、彼女の父親は血筋としては純日本人であるが、文化的にはブラジル人であるだろう。
彼女は29歳にして、ブラジルで弁護士をしていたが、帰国後はプロのメイクアップアーティストに転職すると言っていた。
彼女とは、3週間程しか教室を共にしなかったが、すぐに打ち解けた。
互いに特別な感情を持っていたように思える。
彼女がオーストラリアを立つとき、私は彼女に直筆の手紙を渡した。
パロマのお祖母様にも、日本語で書いた手紙を託した。
パロマが卒業したあと、オーストラリアに住む私に手紙がきた。旅行先のタイから私にバースデーカードを送ってくれた。その返事として私はブラジルに手紙を出した。
この時代に私達は、わざわざ紙で文通をしている。手紙を出すのに毎回200円以上はかかるし、届くのに1ヶ月近くかかることもある。それでも直筆でやりとりすることに私は特別な愛情を感じている。
2人目は、私が卒業する1ヶ月前に同じクラスに入ってきたロドリゴ・オカダである。
彼も3世であるが、両親は純日系で、血筋としては100%日本の血であり、岡山で産まれてすぐにブラジルに渡り、大人になるまで1度も日本を訪れたこと無かったという。
血筋としては完全な日本人にも関わらず、彼の顔つきや体型や生活スタイルは完全に南米のそれである。
2人に共通して言えるのが、母国語はポルトガル語で日本語は簡単な挨拶と数字を少し言えるくらいで、日本語で会話は出来ない。
しかし、世話好きで自分が目をかけた相手には面倒見がとても良いところに日本人的なものを感じた。
そんな彼らとの交流は私に日系ブラジル人への興味をもたせるのに十分だった、というのもクラスメイトの多くはブラジル人であったからだ。
私のクラスが全員ブラジル人で私一人が日本人だったことも度々あり、ブラジル人だけのパーティーに招待され実際に行ってみた。
ブラジルと日本の最近の関係で言えば、オリンピックだろう。
2016年の夏季オリンピックがブラジル・リオで開催された。
2020年の夏季オリンピックは東京で開催される。
リオ五輪の閉会式では、日本のマリオやドラえもんが登場するアニメーション入りのプロモーション動画とTokyo五輪開幕のパフォーマンスが話題となった。
私のクラスメートのリシェーリの話では、リオ・オリンピックまでは景気もよく、オリンピックに向けての雇用もあり、経済と治安も安定していたらしい。しかし、閉幕後には景気悪化に伴い、治安も悪化したと言う。
多くの企業は倒産し、リシェーリがオーストラリアに来るためにブラジルで会社を退職した翌月に、彼女のいた会社も倒産したと言う。
このブラジルの話から日本社会が参考にできることを考え、行動しなければいけないと思った。
では、本題に入ろう!
「なぜ、100年前の明治時代に生きる日本人が地球の反対側であるブラジルを目指したのか」という疑問が沸いてきた。私達の先祖は自らそんな大変な選択をする必要があったのか。当時の日本が食料危機だったのか。
それとも新・日本政府が植民による領土拡大を狙っていたのか?
日本の市民側の理由としては、明治維新後の日本は、いくら四民平等と言っても、まだ江戸時代とそんなに状況は、変わらなかったと思われる。ということは、家の家禄や資産は全部長男が引き継ぐことになり、次男以降の男は、生きていくのが難しかった。そこで、夢の国に移民する人たちが多かったと考えられる。
ブラジルも夢の国と言われていた。(挿絵)
次に日本政府側の意向はどうだったのか。
移民政策を通してブラジル政府と国交を結ぶことにどのような
目論見があったのか考察してみたい。
日本政府としては、日露戦争でロシアに勝利したもののロシアから賠償金をとれなかったために、国内経済は疲弊していた。そのため日本人の移民政策を打ち出した。はじめは北米に移民を送り出していたが、アメリカを始めとしカナダ・オーストラリアでの日本人排斥運動が盛んになったため、第二の移民先としてブラジルがあげられた。その頃、ブラジル政府も外からの移民を必要としていた。
ブラジルは何故移民を必要としていたのか?
ブラジルはアフリカ大陸から送りこまれた奴隷を農業労働者として重用していたが1888年に奴隷制度廃止を行い、その後農業労働者不足となりヨーロッパ諸国からの移民を受け入れ始めた。しかしイタリア人移民が奴隷のような待遇の悪さに反乱をおこし移民を中止したために再び農業労働者が不足となった。これを受けてブラジル政府は1892年に日本人移民の受入れを表明した。しかし日本政府はイタリア人移民の事案を根拠にブラジルへの移民を躊躇した。
日本人の新たな移民先となったブラジル
1905年(明治38年)にブラジル政府から日本人移民の実施を打診されたのを受けて移民の送り出しを行っていた「皇国殖民会社」が1907年(明治40年)にサンパウロ州と契約を締結し日本全国で移民希望者を募った。募集期間が半年弱と短く「家族単位での移民」という条件のため希望者を集めるのに苦心したが最終的に781人が第1回の移民として皇国殖民会社と契約を行った。
そして1908年(明治41年)東洋汽船の「笠戸丸」でサンパウロ州のサントス港へと向かった。
ブラジルでの過酷な境遇
「皇国殖民会社」が移民希望者を募る際にブラジルでの高待遇を喧伝しており、移民の殆どは数年間契約労働者として働き金を貯めて帰国するつもりであった。しかし先に移民して来たイタリア人同様に日本人も法律上の地位こそ自由市民であったものの、一部の農場を除きその実情は奴隷と大差ないものであった。あまりの待遇の悪さからストライキや夜逃げも多く発生し近隣の州やアルゼンチンへと渡る者もあらわれた。1909年に外務省が調査した結果、笠戸丸で移民し当初契約したコーヒー園に定着したのは全渡航者の4分の1のみであった。
自作農として独立し成功する
コーヒー農園から逃亡した多くの日本人移民は資金を出し合い共同で農地を取得し、1919年(大正8年)には初の日系農業組合として「日伯産業組合」を設立した。その後多くの日本人移民が自作農と成ったり日本人移民向けの商店や工場、医師を開業する者も現れた。コーヒー価格の暴落の際には他の農産物へ転換する者も多く、特に胡椒や紅茶栽培は大成功を収めた。
現在ブラジルで栽培されている農産物の多くは日本人移民が持ち込み品種改良などを通じてブラジルの赤土での栽培に成功したものである。
ブラジルで、日本人・日系人を表す言葉として、「ジャポネース・ガランチード」という表現がある
出典
直訳すると「保証つきの日本人」。約束を必ず守り、責任を持って仕事を果たす。コツコツとマジメに働いてきた日本人移住者が積み上げてきた信用が、「日本人、日系人なら間違いはない」という絶大な評価としてこの言葉に込められています。
ブラジルに移民された方々が貧乏と苦労の中、マイノリティの立場でありながら、ブラジルの人々からこのような表現があるほどの信用を得た
出典
ブラジルに移住した日本人たちはその長きにわたる努力により、ブラジル社会の中で信用を培ってきました。「Japonês Garantido」という表現は、すっかり定着したものとなっているようです。
失敗を恐れずに、前へ前へと進んで行くポジティブなパワーこそが、ブラジルにいる日系人の特徴
世界からみた日本の経済大国のイメージも伴い、在ブラジル日系人への評価も高まり、日系人の側にも日本文化の積極的な受容やルーツの意識などが芽生え肯定的に捉えられている。
まとめ
実際に日系ブラジル人と出会い、友達として付き合う中で彼らを尊敬し、100年前にブラジルに渡ろうと決意した先祖に感謝の気持ちがうまれた。
オーストラリアという地で、異文化・異言語・異民族の中で自分がマイノリティーになり、毎日生きるだけで大変な思いをしているからこそ気づけた日本人への尊敬である。
明治の日本人の魂が、ブラジルでまだ生きている。
彼らと接して、日本人としての私は誇りに思うのである。